真田幸村終焉の地
2021.12.06
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さて、天王寺と言えば安居神社が有名です。
祀られているのは、かの有名な菅原道真。学問の神様としても有名ですね。
そして何と、大阪の陣で活躍した戦国武将・真田幸村終焉の地としても伝えられています。
本名は真田信繁と言いますが、現在は幸村の名で親しまれています。幸村と呼ばれるようになったのは、江戸時代に書かれた軍記物の中で、信繁が「左衛門佐幸村(さえもんのすけゆきむら)」と名乗りを上げているシーンがあり、それが文献上の初出と言われているようです。
幸村は武田信玄にも仕えていた知将・真田昌幸の次男で、若いころは人質生活を余儀なくされるなど苦労を重ねています。関ケ原の合戦の際には父親と同じく西軍に味方しており、西軍が負けた合戦後は一時死罪を命ぜられますが、東軍に味方していた兄の真田信之と岳父・本多忠勝の助命嘆願の甲斐もあって、九度山に流罪となっています。その後、徳川との関係悪化から戦いの準備を始めた豊臣が浪人を募り、幸村も流刑先の九度山を脱出して大阪城に馳せ参じています。なお、父・昌幸は九度山で亡くなっています。
そうして、大阪冬の陣では堅固な出城である「真田丸」を作り、徳川相手に大活躍をする幸村ですが、続く大阪夏の陣では奮闘し、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めますが、家康の首を取ることは叶わず、ついには力尽きたと伝えれれています。その際家康が自害を覚悟したと言われるほどに、幸村の勢いは凄まじかったようです。安居神社には、幸村公の像や亡くなった場所とされている一本松など、歴史ファン必見スポットが多く見られます。是非一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。
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