大阪城の歴史

2021.12.06

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今回は「大城」についてお話してみたいと思います。

城は大城とも書き、古くは「おおざかじょう」とも呼んでおり、別名では錦城/金城(きんじょう)とも表記されていました。
安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築されたこの大城ですが、どのような歴史があったのでしょうか?

築城に至る前、古くは古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代から安土桃山時代までは石山本願寺という浄土真宗の寺院がありました。石山本願寺は羽柴(豊臣)秀吉が築城を始める数年前に火災で焼失してしまいました。
築城開始は1583年、上記の通り羽柴(豊臣)秀吉の本拠地として築かれましたが、当の秀吉は聚楽第や伏見城で過ごした期間が長かったようです。

秀吉の死後、徳川により所領を分配されてはいたものの大坂城は遺児の秀頼が居城としていました。しかし家康の憂いを断とうとする策謀により、大坂冬の陣にて本丸と内堀のみの裸城にされてしまいます。再建を試みた秀頼はこの後大坂夏の陣にて城を落とされ滅ぼされてしまいます。

落城後はしばらく手を加えられることはありませんでしたが、江戸幕府領直轄となった際、2代将軍徳川秀忠によって大規模な大坂城再築工事が行われることとなります。この工事は9年かけて行われ、現在残っている遺構のほとんどはこの時再築されたものになります。
そして江戸末期、鳥羽伏見の戦いに負け、大坂城が新政府軍に明け渡される前後の混乱の際に出火し、場内の多くの建造物が焼失しています。

近代ではその広大な敷地を利用し陸軍の工廠としており、戦争時は爆撃目標とされることもあった。1928年には昭和天皇の即位記念事業として、天守再建を含む大阪城公園整備事業が始まり、天守閣の再建工事は1930年にはじまり翌年に完成しました。
しかし終戦の前日、大阪大空襲により工廠周辺を集中的に狙われ、江戸末期の火災を逃れていた多くの櫓などが被害を受け、焼失してしまいます。ただし天守閣だけは天守台の損傷はあったものの破壊は免れていました。
現代では知る人も多いでしょうが、復興天守は健在のまま大阪の象徴となり、周辺は大城公園が整備されています。近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多くなっています

簡潔にまとめてみましたが、皆さんはどのくらいご存知でしたでしょうか?太閤が造った城という事は知ってる方も多かったと思います。今回はかなりざっくりとしたものではありますが、興味がある方は是非詳しく調べてみてください。大阪城を訪れ歴史を感じるのもいいかもしれません。

もし大阪にいらっしゃることがあれば、是非天王寺ギガクリニックへお越しください。
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