杜の都~仙台
2021.01.26
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東北地方を代表する都市仙台。仙台市は別名「杜の都」として呼ばれます。
今回は、その由来について書いていきたいと思います。
仙台が「もりの都」と言われたのは明治42年・1909年に「森の都」と記された文献が残されており、
大正5年・1916年の仙台繁昌記には「杜の都」と記されています。仙台繁昌記は仙台の歴史や名所旧跡、
文化などを記した文献で「森の都」と「杜の都」の両方が併記されていました。
昭和45年・1970年に仙台市の「公害市民憲章」に「杜の都」と明記され、それ以降は公文書における記載が「杜の都」で統一されています。
杜の都に使われる「杜」とは神社等を表す「社(やしろ)」という漢字に似ていることから、神社やそこに生える木々を準えて「杜(もり)」と呼びます。
仙台市が「森(盛り)」ではなく、「杜」を使うのは神社仏閣や武家屋敷、仙台には多くの緑が存在するためだといわれます。
仙台は、戦国時代から江戸時代初期の頃この土地に木々はほとんどなくススキ等が生い茂る草原だったそうです。
どのように仙台は緑豊かな土地となったのでしょうか。
そこで出てくるのが「伊達政宗」の存在です。伊達政宗161年頃住処を仙台へ移し、ある支持を家臣たちに出します。政宗は城下町にある武家屋敷の土地を使い、家臣たちに生活や産業に寄与する樹木等を植えるように指示したとされ、柿、梨、栗、梅等の食糧になる樹木の他に松、竹、欅、杉など建築資材等に利用できる樹木にも多く植えさせました。
このようなことから仙台に緑が多いのが容易に想像ができますが、現在の仙台は伊達政宗の頃からの緑をそのまま引き継いでる訳ではありません。
伊達政宗が居城を移したその約250年後、昭和20年・1945年7月10日、仙台空襲で街が焼かれてしまいました。戦後は幹線道路が建設されたが舗装まではされず、乾燥すれば砂塵が舞っていたため「仙台砂漠」と呼ばれていました。
家庭燃料としてしようされていた亜炭の煤煙と亜炭の匂いにより砂塵と共に埃っぽい街になっていたそうです。
また、舗装がされていない幹線道路により雨の日はぬかるみ「仙台田園」とも呼ばれていました。
その後、全国に及ぶ緑化計画で仙台市内の街路樹が増えその総延長は125㎞に及びました。
仙台はそれ以降も「仙台市環境基本条例」の制定。仙台市環境基本条例に基づいた「杜の都環境プラン」(仙台市環境基本計画)の策定、都市緑地保全法および杜の都の環境をつくる条例で規定された仙台市緑の基本計画「仙台グリーンプラン21」の取り決めるなど、仙台は近代化された街並みと緑との調和に力を入れており、住む人たちにも訪れる人たちにもより良い環境を提供しています。
この素晴らしい仙台へ訪れた際は、仙台ギガクリニックへ是非ご来院ください。